私は柔道整復師であり
パーソナルトレーナーであり
フィットネスインストラクター
でもあります。
現在、
トータルコンディショニング
ジムと銘うって
治療と筋トレ、ヨガの指導を
しています。

私が
ヨガの指導現場で
よく言われることがあります。

まず、
入会を検討している方からの
言葉。
「体が硬いのですが
できますか?」
そして、
クラスに継続的に参加している
方から、
「今日のあのポーズは
できなかった。」
または、
「前でやってた○○さんは
できていた。」

それらのセリフを
言われるたびに
私の心にモヤモヤと
灰色の雲が発生するのです。

なぜなら
ヨガは外から見たポーズの
仕上がりを求めるものではなく
ましてや他人と比較するのでも
ないからです。そして
指導者である私からの評価も
ありません。(怪我の危険が
ある時は修正しますが。)
あくまでも自分自身のための
時間であり、行いなのです。
ところがそう伝えても、
なかなか納得してもらえない。
社交辞令的な慰めの言葉と
思われ、
苦笑いされて終わりです。
いや、本気で言ってるし。
この現象はひとつに
我々日本人の育った環境が
影響しているのではないかと
思うのです。
(これを書いていて
山崎まさよしの歌が脳内に
流れたのですが、題名を一瞬
“レタス”と思って
すぐに”セロリ”と気付いたので
セーフ。笑)

環境の違い、
つまり国民性について考えた
できごとがあります。

もう15年以上前のことです。
当時私がスポーツクラブで
エアロビクスダンスの指導を
していた時のこと。
参加者のほとんどは日本人
なのですが、極まれに
海外の方が参加することが
ありました。
その日もどこの国かは
定かではありませんが
体格のいい元気な女性が
エアロビクスダンスの行われる
部屋に入ってきました。
私は英語が苦手です。
言葉が通じない不安を持ちつつ
いつもどおりスタート。すると
テンポのいい曲が流れた瞬間
その女性、こちらの指示は
そっちのけで
「イエ~イ!」と踊りだし
終了までの約1時間、
オリジナルダンスを
踊りまくったのです。
私は度肝を抜かれつつも
他の参加者を動揺させないよう
平常心を装い、
なんとか1時間を終えました。

クラスの終了後、
出入口で参加者を見送り
その女性にも声をかけました。
内心、不測の事態に疲れ
気落ち気味の私に彼女は
「楽しかった!ありがとう。」と
お世辞ではないと
確信できる笑顔で軽やかに(体は
大きいけれども。 失礼)
去って行ったのでした。

この出来事から
私は何が言いたいのか。

その女性の持つ評価基準は
できる、できないではなく
楽しいか楽しくないか
なのだと思うのです。
もっと言えば
楽しむか楽しまないか
とても主体的、自発的です。

もちろん
その女性1人の事例を
一般化することはできません。
単なる性格の違いかも
しれません。
ただ、
少なくともその場にいた
29人の日本人は一糸乱れず
私の指示どおりに懸命に動き、
(それが悪いとは
一切思いません。むしろ
そういう場ではあります。)
1人の海外の女性は
自由を楽しみ帰っていったのは
事実。しかも朗らかに。
例えば、
「みんなと同じに
できなかった。」とか
「まわりに迷惑だったかな。」と
気にする様子はゼロでした。

実際、
その場を乱したわけで
周囲も
少なからず混乱しました。
でもこの、
自分ファーストで楽しむ感じ
こちらも不思議と
後味が悪くないのです。

日本は
島国、単一国家で
「和をもって貴しとなす」
という聖徳太子の言葉が
細胞レベルで浸透している
ように思うのです。
その協調性をベースに
”間違えないこと”、
つまり
”みんなと同じにできること”が
大切で
”できること”を評価されたい
という強めの欲求が
多くの日本人の心の奥に
あるのではないのでしょうか。
心理学者でもない私の
勝手な解釈ですけれど。

でも、少なくとも、
ヨガは違うのですよ。
もっと自由でいいのです。
自分なりの
心地いい時間、空間、呼吸を
楽しむものなのです。
慌ただしい日々の中、
ほんの少しの間、
人の目や評価なんて考えずに
全身の力を抜いて
楽に過ごして
欲しいと思います。


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投稿者について

柔道整復師&パーソナルトレーナー&フィットネスインストラクターです。筋肉、骨、関節を中心に健康に関する情報をあれこれ、読書好きなのでお勧めの本を紹介したり、韓流ドラマ好きなので感動したら思わず感想を書いてしまうこともあるかもしれません。どうぞよろしくお願いします。

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