以前、このブログに
書いたことがあったかと
思います。
おそらく20年くらい前に
何かの記事で読んだ話。

ある寺の修行僧が
先輩僧侶にトイレ掃除を
命じられました。
修行僧はひととおりの掃除を
終え、先輩僧侶に報告。
すると先輩僧侶が
「そうか、終わったか。
ではお前、便器を舐めてみろ。」
ととんでもないことを
言ったのです。
この言葉の真意は
“便器を舐められるほど
やりきってこそ初めて
掃除をしたと言えるのだ。”
ということかと私は解釈して
います。
形式的に表面的にやり過ごし
見せかけるのではなく、
丁寧に心を込めて、ある種の
緊張感を持って仕事に臨む姿勢
をたった一言で
教えてくれているのだと
思います。
私はこの話が好きで、いまだに
トイレを掃除していると
思い出します。

話は変わって。
多分15年ほど前、
長野県の善光寺に
行った時のこと。
善光寺に近いある寺の宿坊に
泊まりました。
夕食は精進料理を堪能し、
就寝時間を迎えたその時、
事前の説明どおり僧侶が部屋に
やってきて、電光石火、
あっという間に
寝床を整えてくれたのです。
僧侶は落ち着いていてゆっくり
動くものという、
どこから来たのか分からない
妙な先入観に囚われていた私は
その素早さに驚きました。

さて、
丁寧に完璧にという
トイレの話、
目にもとまらぬ速さで布団を
敷いてもらった体験、
どちらも寺の僧侶という
共通点があり、
ところが矛盾している。
これが長年私の中で
消化しきれずにいたのです。
とはいえ大ごとでもないので
考え続けることもなく
今に至りました。
そして最近ふっとある考えが
浮かびやっと腹落ちしました。

ふたつとも、同じでした。
トイレ掃除の話に出てくる
僧侶はあるべき姿を先輩から
学び、
長野の寺の僧侶はそれを
実践し体得していた
ということ。
なぜなら、敷かれた布団は
決して雑ではなく、きちんと
整えられていたからです。
スピーディーに、かつ丁寧に。
これが実現できている要因は
「集中力」なのではないかと。

僧侶の修行法のひとつである
座禅。そして最近その名が
定着しつつある
マインドフルネス。すでに
文化として根付いたかと
思われるヨガ。それぞれを
「瞑想」と括るとして、
「瞑想」は「集中」と
言い換えることができるかと
思います。
今、ここに、集中する。
座禅にしても、
マインドフルネス、ヨガに
しても集中力を養うには
とてもいい手法です。
そしてそれらを行っている時
以外の生活時間にも
その心持で臨むことができたら
さらに集中力が高まり
前述の長野の僧侶のように
速く、でも丁寧に心を込めて
事を成すという神業が
実現できるのかもしれません。
それができたら
私の生産性は爆上がり。(笑)

幸い私はヨガの指導者。
その質を高めるために
オンラインの座禅会にも
参加しています。
でもね、
そうそう簡単には
いかないわけですよ。
何が手に負えないって
自分自身の精神を
コントロールすることほど
難しいことはないと
思うのです。 

 




avatar
投稿者について

柔道整復師&パーソナルトレーナー&フィットネスインストラクターです。筋肉、骨、関節を中心に健康に関する情報をあれこれ、読書好きなのでお勧めの本を紹介したり、韓流ドラマ好きなので感動したら思わず感想を書いてしまうこともあるかもしれません。どうぞよろしくお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA