「雄弁は銀、沈黙は金」。
今、
この諺を噛みしめています。
ほんの軽い気持ちで発した
ひと言。
しかも、
褒めるつもりでした。
ところが予想外の
リアクション。
私の言葉選びが
悪かったようです。
何とか理解を得ようと
したけれど、
どこまで
伝わっただろうか。
こんなことなら
何も言わない方が
ましでした。
まさに、「沈黙は金」。
たぶん私は
“言葉”の使い方が
下手なのです。
不用意なひと言で
人から誤解を受けた
嫌な思い出が
一度ではありません。
子供の頃、
祖父母とは離れて
暮らしていました。
車で一時間位の距離で、
商売をしていた祖父母は
休日に決まって
我が家へ泊まりに来て
いました。
祖父母が来てくれることが
嬉しかった私は
その喜びを伝えたくて祖母に
「いつまでいるの?」と
聞いたのです。
その瞬間、祖母の顔が
曇ました。
そして、
すぐに帰ってしまったのです。
祖母からしたら
孫に「早く帰れ。」と
言われたと思ったのでしょう。
いまだに思い出す程
心の傷として残っています。
もう一つ。
小学生の頃です。
詳しい状況は
覚えていないのですが
同級生のひとりが
病気だったか怪我だったか
とにかく大変だ
ということでクラスの皆で
心配していました。
でも結局大したことはないと
分かった時にほっとして、
おもわず「なあんだ。」と
もらしたら
別の友人に
「なあんだ、じゃないよ!!」
とすごい剣幕で
怒鳴られたことがありました。
私としては
「なあんだ(よかった)。」
という気持ちだったのですが、
友達の不幸を願っているように
受け取られて
しまったのですね。
割と長く生きていますから
これ以外にも
大きな失敗、小さな失敗を
繰り返しています。
その積み重ねで
少しは発する言葉を
選べるように成長していると
思っていたのですが、
どうやら
まだまだなようです。
それにしても
言葉って本当に難しいですね。
同じひと言でも
生まれ育った環境が違ければ
解釈が変わったり
そのニュアンスを
汲み取ってもらえなかったり。
そして
一度発してしまえば
取り返しが効かず
取り繕えば
どんどん深みにはまっていく。
同じ日本語
同じ地域の方言を使ってでも
なかなか
正確に伝わらないのだから
第一言語が異なる者どうしの
コミュニケーションは
さらに難しいのでしょうね。
大きな失敗をすると
つい怖気づいて
できるだけ
他人と接しないように
心理的に引き籠る私です。
でも、そこで逃げずに
大切にしたい相手とは
多少の衝突ありきで
とことん話し合うのが
一番いいのかもしれない。
でもそれには
言葉の間違いを寛大に
受け止めてくれる程の
厚い信頼関係があることが
大前提になるのだろうと
思います。
その信頼関係は
コミュニケーションによって
作られるという。
あゝ、エンドレス。