もう、
20年以上前のことだと
思います。
何か情報誌のようなものの
ひとつの記事に書かれていた
ことが、強く印象に残り
いまだに思い出して
反芻しています。
細かい所はあいまいですが
ざっくりと。

あるお寺で修行僧が
先輩僧侶の指示で
トイレ掃除をします。
その修行僧はもちろん
一生懸命に掃除をし、
終ったことを先輩に
報告しました。
修行僧:
「トイレ掃除が終わりました。」
すると先輩僧侶が
「そうか、終わったのか。」
修行僧:
「はい。」
先輩僧侶:
「ならば、おまえ
 便器をなめてみろ。」
修行僧:
「!」

現代であれば、そして
一般企業であれば、
パワーハラスメントで
新聞、テレビ、ネットを
確実に賑わしたであろう
内容。(笑)

パワハラかどうかは
脇に置き、
その時の私には衝撃であり
強く感銘を受けた記事でした。
この話の設定がトイレなだけに
トイレ掃除をしている時に
度々思い出します。

この話の
言わんとしていることを
私は、
「やった」ことと
「やったつもり」は違うのだと
受け取りました。
ひととおりの掃除をしても
自信を持って便器を
舐めることができなければ
それは
「掃除をしたつもり」に
なっているだけ。
言い換えれば
本気ではないということ。

これは日常生活で
よくあることでは
ないでしょうか。

ある日私がゼリーを作った時の
ことです。
ガラスのコップにお湯を入れ
ゼラチンを溶かし
それを他の容器に移した後
しばらくして
そのコップを洗いました。
いつものような手順で洗い
水で流して何気なくコップの
底を触ってみたら
がっつりゼリーの塊が
ついていたのです。
決して雑に洗ったわけではなく
ゼラチンが固まり
残りやすいのも
考慮の上でした。
その後、かなり丁寧に洗って
やっときれいになったのですが
このことで
気付くことができました。
いかに、「やったつもり」
だったかを。
おそらく、普段の食器洗いは
洗えているように見えて
洗えていない。たまたま
ゼリーという
分かりやすいもので
気付けたけれどそうでなければ
「洗ったつもり」を
繰り返していたことでしょう。

これは
2年程前のことですが
コロナ禍の最初の頃、
テレビのニュースで
対応に追われる
学童保育施設の様子が
流されました。
その時映し出されたのは
児童が使うテーブルを
スタッフが消毒液を使い
布巾で拭いている様子。
1日に何回も消毒しなければ
いけないと、忙しそうに手を
動かしているのですがそれは、
四角いテーブルの真ん中で
クルクルと円を描き、肝心の
子どもが触れる端に届いて
いないのです。
これを決して非難するつもりは
ありません。
いっぱいいっぱいだったと
想像できます。
でも結果、
拭けていたのか、いないのか
と言えば拭けていないのです。

ひとつひとつのことに
本気で取り組む。
全身全霊を注ぎ込む。
「瞑想」
「マインドフルネス」
に通じるものかと
思います。
とはいえ
日常生活の全てに本気を出して
臨んでいたら
疲れ切ってしまいそう。
ならば
緩急をつけていこうかと。
まずは仕事において
120%のエネルギーを注ぐ
心構えを持とうと思います。
つまり
コップの底のゼリーはOK
ということ。(笑)







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投稿者について

柔道整復師&パーソナルトレーナー&フィットネスインストラクターです。筋肉、骨、関節を中心に健康に関する情報をあれこれ、読書好きなのでお勧めの本を紹介したり、韓流ドラマ好きなので感動したら思わず感想を書いてしまうこともあるかもしれません。どうぞよろしくお願いします。

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